林丘寺

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写経のなりたちと、新しい取り組み

和歌や書、絵画に優れた才能をお持ちだったと伝えられている朱宮光子内親王殿下。
殿下が開創なさったお寺にふさわしく、林丘寺では月に一度、朱宮光子内親王殿下のご命日にあたる6日に、「六日会」という写経サロンを開いています。

私たちがサロンを始めたのは1991(平成3)年でしたが、そもそもの写経はいつ、どのようにして広まったのでしょうか。おさらいも兼ねて、本を開いてみました。

写経とは、文字どおりお経を書き写すこと。そしてこのお経は、インドから中国へ伝わり、漢文に翻訳されたのち日本へやって来ました。仏教伝来が6世紀中ごろと言われていますから、お経もこの時、海をわたってきたのでしょう。

書かれている内容はさまざま。「当たり前に存在していると思っているものは、実は存在しないもの」だと否定する“空の思想”を説いたお経があれば、夫婦の道について記した内容も。そのほかにも、父母への感謝、医療、法律、長寿など、テーマは人の暮らし全般にわたります。主題が変われば、内容の雰囲気も変わるもの。明るいもの、寂しげなもの、勢いのあるものなど、バラエティー豊かです。読み慣れてくると、このような違いに気づけるかもしれません。

さて、ここまでは仏教とお経のはじまりのお話し。ここからは、“写経のはじまり”を探っていきます。

見つかっているなかで一番古い記録には、「7世紀の終わりごろ、天武天皇の即位後すぐに、川原寺にて一切経を書写した」とあります。
いまでこそ「心が落ち着く」「集中力がつく」といった理由で行われている写経ですが、当時は“仏教を日本に普及する”という重要な役目を担っていました。

現代のような印刷技術が存在しない時代です。多くの人の手にお経を届けるには、手で書き写すしかありません。そのため、奈良の都には官立の写経所が設けられ、そこで多くの人が仕事として写経に携わっていました。つまり、写経のはじまりは、公営の事業だったのです。

時間は進み、都も京都へ。
ここで写経の役割が変化し始めます。そのきっかけをつくったのは、天台宗の僧侶・慈覚大師円仁でした。
天台宗を開いた最澄に師事し、布教活動にも積極的に取り組んだ円仁。しかし、40歳を迎えたある時、重い病にかかってしまいます。そこで死を覚悟しつつ行ったのが、法華経の写経でした。神仏に祈りを捧げながら、めざすことなんと六千部。この尊い修行により、円仁はぶじ回復したと言われています。

円仁の評判が増すにつれてこの逸話も知られるようになり、僧侶・民衆の別なく、多くの人が写経を行うようになりました。
噂はついに天皇陛下の耳にも届き、写経と皇族が結びついていきます。まず淳和天皇が、仏道と縁を結ぶことを祈願して、盛大な写経供養を催されました。1031(長元4)年には皇后・上東門院、1187(文治3)年には後白河法皇がお手ずから写経を行い、これを比叡山へ奉納したという記録が残っています。

皇室からの写経奉納が続けば、朝廷の貴人方も黙ってはいられません。こうして写経は一大ブームとなり、自らの願望達成を願う個人的な写経文化が花開いていきました。

私たちの六日会で実施しているのも、個人的な写経です。参加者の皆さんは、墨を磨るところから始めて精神を集中。一文字一文字、仏様のお言葉を“写させていただく”感謝の気持ちで、写経に向き合っていらっしゃいます。
サロンへずっと通っている方ほど、ご自分の気持ちの整え方が身についていくのでしょうか。ふいのトラブルを乗り越える力が増しているように感じています。「字がヘタで」とおっしゃっていた方も、長く続けるうちに自信がついてくるようです。よりのびのびと文字を書いている姿を見ると、私もほっこり嬉しくなります。

皆さんのこうした姿を見つめるうちに、私のなかに「写経の魅力をもっとたくさんの方に知っていただきたい」という思いが芽生えました。そこで決意したのが、秋の写経体験会開催です。

紙は、林丘寺の名を入れた特注品。墨は奈良・古梅園から、写経用のものを使用します。
筆は2本。写経においては筆を最低2本用意して、30分に一度取りかえるのが望ましい。なぜかと言えば、筆は書くうちに穂先がだんだん広がって、細い線を引きづらくなるためです。

皆さんの笑顔を思い浮かべながら、30年以上の写経サロン運営で気づいたことも取り入れつつ、快適に写経を行える環境を整えてまいります。
詳しくは、もう少し日が迫ったタイミングでお知らせできればと思います。楽しみにお待ちくださいませ。

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