聖明山と号する臨済宗の門跡尼寺である。もとは、修学院離宮の造営者として知られる後水尾上皇の第八皇女・朱宮光子内親王の朱宮御所(音羽御所)で、朱宮は父から修学院離宮内に別殿を賜って楽只軒と称した。
延宝八年(1680)に上皇が没すると、朱宮は出家して照山元瑤と号し、御所を林丘寺と改め、門跡尼寺とした。その後上皇の中宮・東福門院の奥御対面所(控室)等を賜って客殿としたが、明治十七年(1884)には寺地の約半分を皇室に返還し、楽只軒と宮殿は修学院離宮の一部となった。現在、離宮内にある客殿は、華麗優美な意匠でまとめられ、床脇の五段の遠棚は、桂離宮、醍醐三宝院の棚とともに天下の三棚と称されている。
庭には桧垣塔という美しい三重塔婆がある。望嵐亭からは洛内外が一望でき、特に花時の嵐山を遠望するのに適したというが、現在は樹木と堂宇に遮られている。